完成されていないからこそ、より美しくなった作品というものがある。
世界で最も有名な絵画『モナ・リザ』の眉毛が消えているのは、むしろそれが神秘的な美しさを生み出しているからだ。フランツ・シューベルト(19世紀オーストリアの音楽家)の『未完成交響曲』も、完成されなかったことで歴史的な傑作となった。31歳で亡くなった天才作曲家は、本来は4楽章で構成される交響曲を2楽章までしか完成できなかったが、それが逆に永遠の音楽的美しさを生み出したのだ。
スペイン北部の映画界の巨匠として、昨年韓国で改めて注目を集めたビクトル・エリセ(スペインの著名映画監督)の第2長編映画『南(The South)』も、この「未完の傑作」のカテゴリーに属する作品だ。
当初は3時間にも及ぶ大河ドラマとして企画されていた本作は、現実的な事情により撮影が中断され、約半分のストーリーだけで完結することになった。しかし、多くの映画ファンはこの「未完性」をむしろ完全な鑑賞体験をもたらす独特の作品として高く評価している。
物語は、スペイン北部の街で暮らす少女エストレーヤ(イシア・ボレイン扮)を中心に展開する。幼い彼女にとって、父親は愛であり理想であり、すべてだ。父親からの愛は完全で揺るがない。やがて年を重ねるにつれ、エストレーヤは父親がもう一つの世界を持っていることに気づく。
転機は、父親の机の引き出しから一枚の紙を発見したときだ。そこに繰り返し書かれていた名前――イレネ・リオス。父親が生涯忘れられずにいた女性の名前を、直感的に看破する娘。学校の帰り道、映画館前に駐車されていた父親のバイク。そして壁に貼られたポスターに見つけた、その同じ名前。少女の心に、疑問と好奇心、そして微かな恐れが生まれる。
父親にとって「南」は、幼少を過ごし、そして去り去った土地だ。そこは思い出と郷愁、そして叶わぬ夢と、選ばれなかった別の人生の選択肢が存在していた場所である。一方、娘にとって南は、愛する者を生み出した未知の世界であり、見知らぬ土地でありながら、知りたいと願う場所だ。
エリセの映像は、具体的な出来事よりも、登場人物の表情と独白、会話の下に潜む沈黙と雰囲気によって、確かに起きた二人の物語を紡ぎ出していく。長い間、父親には気づかれなかった、娘が見て感じ、経験した真実。やがて成長した娘は、直接「南」へ向かう機会を得る。しかし映画はここで終わってしまう。
その後、南で出会った人々と経験したことは、娘に何をもたらしたのか。父親をより深く理解することになったのか。映画はそれを見せてくれない。意図的ではなく、やむなく――映画は途中で中断し、そのままエンドを迎える。
94分というそれなりの尺を持ちながらも、『南』は長く深い呼吸で、他の映画ではわずかな導入部に過ぎないであろうストーリーを紡ぎながら、本編へと進む直前で幕を下ろす。だからこそ、この未完の映画は、親と子の関係の本質を、言葉にならぬ眼差しと身振りで見事に表現した傑作なのだ。完成しなかったからこそ、永遠の問いかけを投げかけ続ける。それが『南』の本当の美しさなのである。
出典:https://www.ohmynews.com/
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