Netflixドラマ『この愛、通訳できますか?』が、公開から数週間経った今もなお、国内外で話題を呼び続けている。圧倒的な美しさの俳優たちと、イタリアなどの美しいロケーションがもたらす映像美が大きな魅力だが、このドラマが提示するものはそれだけではない。現代の恋愛不可能時代における、新しい男性性の可能性を描き出し、ロマンティック・コメディ(ロコ)というジャンルの進化を示す作品として、韓流ドラマの新たな地平を切り開いているのだ。
■グローバルな感性で描かれた家族像
これまで韓国ドラマが土着的な家族主義に浸かっていたのに対し、本作は徹底した「グローバル感性」で武装している。主人公ジュホジン(キム・ソンホ扮)の母はイタリアに移り住んでワイン農場を経営し、年下の現地人男性と再婚。父はアメリカで宇宙旅行の夢に向けて身体を鍛えている。家族は子どもの人生を抑圧する足かせではなく、それぞれが自分の趣味と欲望を追求する独立した存在として描かれているのだ。
また、もう一人の主人公チャムヒ(コ・ユンジョン扮)が育った上流層の家庭の儀式の場が教会であることも象徴的。韓国社会において中上流階級の家庭の宗教儀礼が儒教からキリスト教に置き換わったことを反映している。
2026年の韓流文化の位置づけを象徴するのは、無名女優だったチャムヒがNetflix映画でワールドスターになり、韓国の芸能事務所が日本の大手事務所と対等な立場で交渉する描写。一方、日本は「懐かしく、ビンテージな ノスタルジア」の空間として消費される。この演出は、韓国がもはや他国の文化を余裕を持って観察・消費できる文化資本の優位性を持つことを宣言する象徴的なものである。
■恋愛リアリティ番組と「メタドラマ」の融合
かつて、恋愛リアリティ番組の氾濫により、ロマンティックドラマの存在意義について疑問が生じていた。脚本のあるロマンスが陳腐に見えたのだ。しかし本作は、恋愛番組制作プロセス自体をドラマ内に取り込む「メタドラマ」的手法を採用し、正面突破を図っている。
ドラマ内の恋愛番組は単なる背景ではなく、カメラが止まった後の感情と編集された真実を暴露する装置として機能する。番組が恋愛の「現象」を中継するなら、ドラマはその背後にある「心理的本質」を通訳するのだ。番組の文法を借用して視聴者の目線を合わせながらも、番組が決して到達できない登場人物の深い心理世界と物語の完結性を加える。これはロコというジャンルが番組と競争する代わりに、番組を自分の領土に組み込むことで命脈を延ばした、非常に巧妙な企画の勝利といえるだろう。
■精神医学的症状の文学的昇華
ドラマはチャムヒが経験する「解離性同一性障害」(多重人格)と妄想を、精神医学的枠組みではなく文学的象徴として解きほぐしている。とりわけ、チャムヒのもう一つの人格ドラミの起源が映画キャラではなく、チャムヒの母だったという反転は、精神分析的な深さを加えている。
ドラミはチャムヒに「お前は絶対に幸せになれない子どもだ」という自己観を植え付け、「見なかったふり、知らないふり、違うふり」して生きよと囁く。そしてジュホジンにも現れ、チャムヒの苦痛と欲望を率直に伝え、チャムヒと関わらないよう警告する。しかし、ドラミを通じてチャムヒの充足されない結核を目にしたジュホジンは、優しさが爆発する。ジュホジンがドラミを抱擁することで、最終的にドラミとチャムヒの人格が統合されるのだ。
また、ドラマはチャムヒの精神医学的問題が判明した時、ジュホジンが脳損傷診断と精神科カウンセリングを強く勧める場面を省略しない。その後、医学的介入シーンは最小限に描き、ジュホジンがチャムヒの症状を自然に受け入れる形で演出される。こうして精神医学の専門性を尊重しながらも、精神疾患を「共に耐えるべき人生の物語」として包含する人文学的態度を示しているのだ。
■「恋愛不可能時代」における男性指南書
ドラマは6言語に堪能ながら恋愛には無能なジュホジンが、言語の壁を越えて愛に到達するプロセスを描く。物語中盤、ジュホジンがチャムヒから距離を置き、感情が膠着状態に陥る。視聴者からは不満の声も上がるが、ここは重要な転換点だ。
もともとジュホジンは、毎年PD新人の誕生日に一人で日本の島を訪ねるほど病的な片思いを享受する男。双方向の恋愛を運営する勇気は持たず、「遠くから見守る高潔な自分」に耽溺していた。アイドル女優チャムヒも、適度な片思いの対象に過ぎず、画面越しに見守り、デート相手ヒロ(フクシソウタ扮)の言葉を通訳して伝えるという役割は、その「病的な片思い遊び」にぴったりだった。
だがチャムヒが次々と自分に割り込んでくる。オーロラ
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